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障害者アートの可能性について
川原里依子さん(絵本作家、児童絵画教室「アトリエ が・らんふ」主宰) (1)子どもはまだ「アートへの知的武装」はしていない 1997年障害児童の保護者から声があがり「アトリエ が・らんふ」はスタートした。これは障害児童を受け入れるアトリエがいかに少ないかという事を意味している。 当時わたしは、西宮市の知的障害者通所授産施設の絵画クラブにてアートサポーターをして5年目を迎えていた。 彼らの描く絵画の魅力にすっかりはまり込み、ある程度の実績もあり自信のついてきた頃だった。保護者からの声を少々緊張しながらアトリエの話を進行していくことにした。しかし、5年のキャリアは大人のアウトサイダーアートでの話。今回は子ども。まずは何も考えず子どもたちと向き合おうと最初の教室の日を迎えた。当時場所は新築したてのわたしの自宅だった。 最初に訪れた生徒は多動の子。画用紙に興味を持つどころかそこら中を走り回る。わたしはそのスキを見てはその子の手に絵の具を塗ったくり触感を教える。やはりその子はスルリとわたしの腕をくぐり抜け手一杯に絵の具をつけ走り回る。わたしのキャリアは音をたてて崩れ落ちた。大人のアウトサイダーアーティストとは違い過ぎる・・・ 描かせることから始めなければいけなかった。すべからくすべての生徒がそうだった。描かせるためにはどのように誘導するのがベターだろう? わたし自身アーティストなので人間がクリエイトする時の喜びや必然性を知っている。人間は先天性のクリエイト能力をみな持っているはずだ。それを揺さぶり起こし、発見するためにも無理矢理はタブーだ。 待とう。子どもはまだアートへの知的武装はしていない。待てば必ず能力を出すはずなのである。ひとり一人と向き合いさまざまな画材を用意しては誘導し、何に興味を示すか待つ。 そうしているうちに子どもたちはわたしに慣れはじめた。そして自分にあった画材を使い自分自身のこだわり行為をはじめる。それも夢中になって。 よし!この部分を引きずり出せばいいのだ。ある子どもはモチーフを見て描くと独特の面白いデフォルメに描きだす。どれも強烈な個性の先天性クリエーション能力。それをどう作品化するのかがスタッフの仕事である。待つのが大事である。子どもたちが個性を出し切る前にわたしたちの知識でがんじがらめにしてしまうのは Not find.
(2)子どもの自己表現をどうやってサポートするか 健常児童の子どもたちに関しては「わたしは絵が下手だ」と白い画用紙を前にじっと動かない子がいかに多いことか。リアルな絵が描けないと絵が下手なのだといわれたことがあるのだろう。こんな間違った大人の意見から子どものクリエーション能力に水もれが始まるのだ。絵がキライな子にはガラクタで積み木。指絵の具で絵の具の触感。絵の具を飛ばして遊ぶのも良いだろう。積み木が嫌いな子供は不思議といないし絵の具のドロドロが嫌いな子供は意外と少ない。 アートは、ドローイング(描くこと)だけではない。パフォーマンスも同時に発表している。 ”土を掘り、自らが何時間も埋まってみせる。 何時間も水で顔を洗い続ける。” 芸術の「何かにこだわる」ということを、無理矢理こじつけていていかにも苦しいものだ。ここで健常児童がこの問題にアンチテーゼできるかというとここではなかなか難解だ。社会教育で結果だけを(中抜きだが)きちんと教えられている子どもたちは、実にお行儀がよい。何かをしでかす子どもや、何かにこだわり続けている子どもは少なくなった。 それと比較し、知的障害のある子どもは、強いこだわりを持つ表現行為をすることが多い。ネジくり回した回路から苦悶して発生したものではなく、日常の生活の中で自然に湧いて出た太い水路で、必然的にできた生活用水のような気がする。さらにいうなら、自らの道標のクイを深く差し込むように、そうしなければ道に迷ってしまうのであろう、強い必然性を感じる。 面白いと思うことから始め、どの部分に先天性クリエーション能力があるのか探す。まさに宝物探しである。チョコチョコっと小出しに見せてくる個性をわたし達は思いっきり褒める。そうすることにより子供達は自分自身を表現することがアートなのだとプリミティブなところに返っていく。